hashimotochanのブログ

大学3年生が思ったことを気ままに書いています。

オスカー・ピストリウスと乙武洋匡から見る障がい者への偏見

こんにちは!橋本です。

(実は久しぶりの更新です)

 

少し前ですが、オスカー・ピストリウスという方が殺人容疑で有罪判決を受けたとかいうことがニュースになりましたね。オリンピックの選手であり、殺害した相手が当時交際していた恋人ということでセンセーショナルなニュースでした。

 

さて、覚えていらっしゃった皆様の彼のイメージはどういうものだったでしょうか。おそらくこのような感じだったと思います。

 

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これは私のスマホで彼の名前をグーグル検索したときのスクリーンショットです。

 

同じ名前を英語で検索してみると…

 

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何かお気づきになったでしょうか?少し印象が違ったのではないでしょうか。

 

「英語版の方がワルそう」

 

たしかに。ここに私が思う所の一つ目のポイントがあります。

 

障がい者に押し付けられるプラスのイメージ

少し別の話になりますが、乙武洋匡さんが不倫を報じられた時には日本中に衝撃が走りました。今まで障がい者というのは、明るい!良い人!大変な毎日を頑張って生きている人!というイメージが押し付けられていたように思います。不倫なんてとんでもない、想像もつかないことでした。私もそのイメージを持っていた一人だと思います。昔、乙武さんの書いた五体不満足を読んで感動したことを覚えています。

 

ピストリウスさんも、日本語で検索されている時は、明るい色のユニフォームを着た笑顔がまず目に飛び込みますね。一生懸命スポーツに取り組んでいる姿は誰でも輝いているものです。プロになるほど努力を重ねてきた方なら尚更でしょう。

 

でも、そのイメージって時には負担になるのではないでしょうか。明るいというプラスイメージを持たれているからといって、それが偏見であることにも変わりはありません。

 

(更に脱線すると、日本ではある特定のターゲットを激しくボロボロになるまでバッシングする傾向があり、乙武さんの場合は国内の相当な有名人だったためそちらの方が問題であったようにも感じます。この話を始めるともう一記事書けそうですね。)

 

そしてもう一つ、上のスクリーンショットを比較して私が思ったことがあります。

 

「英語で検索していれば、ピストリウスさんが障がい者であることに気付きもしないかもしれない」ということです。

 

障がい者であることによるディスアドバンテージ

日本で何かが報道されるときは、その主体の「外国人」「障害者」というカテゴリーを強調する傾向があるように感じます。マイノリティーであればあるほどその傾向は強いのではないでしょうか。

 

それはつまり、ニュースになるほどの特殊な例を(特殊でなければニュースになりませんから)、そのカテゴリーの代表として見てしまうんです。

 

乙武さんやピストリウスさんを見て引いてしまった気持ち、それは障がい者全体に向けられてはいないでしょうか。それは果たして、二人以外の大多数である障がい者の方々に対してフェアなことでしょうか。

 

まとめ

日本のメディアはこうだ!!だからダメなんだ!!と罵倒することは簡単です。私が何かを変えられるわけではない。でも、もし視聴者一人一人の意識が少しずつ変わっていったら、メディアも変わるのではないかと思います。

 

テレビが始まったころの番組には、現在の基準で考えると思わず目を見張ってしまうような差別用語が溢れていたのではないでしょうか。それは時代と共にその基準が変化してきたからです。

 

いつかまとめて記事にしたいと思うのですが、外国語を話している人の字幕が敬語かそうでないかというのも、その人の人種や職種によって非常に差があるように感じます。人間とは区別する生き物なので、差別自体をなくすということはもしかして不可能なのかもしれません。でもだからこそ、そのような見えないような差別にも気付いている必要があるのではないでしょうか。

スクショで記事を拡散することについて

こんにちは!橋本です。

 

最近話題になっているらしい

「最近の若い人たちがスクショで記事を拡散しちゃう」問題。

 

katsuse.hatenablog.com

 

正直このスクショでの拡散行為は、虚構新聞のようなパロディーサイトの記事でも本当の記事のように見えてしまうので、私自身そこまで好きではありません。しかし、やったことがないと言えばおそらく嘘になります。

ただこの記事、サイト運営をしていない大半の若者にとっては

 

「「はあ??」」

 

だと思います。

この記事の著者と私の間に感覚のズレがいくつかあったので、整理してみたいと思います。

 

1、「ホントにいた」って何?

記事のタイトルに入っている「ホントにいた」という言い回し。ピンときませんでした。皆やっているからです。だから間違いじゃない!と言っているわけではありません。ただ、その言い回しに「いや、どういうことやねん!」と突っ込みを入れたくなったのがこの記事を開くきっかけになりました。

 

2、「リンク先に飛ぶのは面倒くさいから」?

記事ではリンク先に飛ぶのが面倒くさいからスクショで拡散するという風に説明がされています。ただ、これも「いや、違います!」と声を挙げたくなりました。

 

私にとってのネットリテラシーというのは、

スパムメール

詐欺サイト。

 

つまり「むやみやたらにリンクをクリックしない」という教育を受けてきています。タイトルが面白そうなものであればあるほど警戒します。「釣りではないか?」と。

例えばツイッターであれば、リンク先の概要が表示されないものはクリックに消極的になります。これを逆に考えれば、自分が面白かった記事をシェアするのならば画像でシェアしてしまえ!となってしまうのではないかと思います。

 

スクショで記事をシェアしている人全員がこういう思考回路かどうかは分かりませんが、悪意を持ってやっているわけではない行為を面倒くさがった結果の行為と解釈された気分になりました。ただもちろん、これによってスクショによる拡散が免罪されるわけではありませんが。

 

3、著作権

コメントでは著作権について言及している人もいますね。ブログの著者はそういう意味でこの記事を書いたわけではないと思いますが、確かにこれ、わたしから抜け落ちていた視点だったと思います。

 

写真や文章などを公的な場所で使う時の著作権というのは確かに授業で習いましたが、それがこの行為に該当するとは考えたこともありませんでした。スクショでシェアをしている当人の感覚としては、コメントの方にありましたが、「面白いものがあったから、写メって、シェアする」という程度のもの。軽いノリの行為なのです。またツイッターやラインなどで友人と共有する場合はたいてい脳内で「私用の範囲」に変換され、著作権にまで考えが及んでいないとも思います。

 

スクリーンショットでソースを明示せずに記事を拡散すると著作権にふれますよ」というのは考えてみればそうのかもしれないけど、考えたことがありませんでした。反省しなければならないと思います。

 

ネットリテラシー教育で言われることはだいたい同じで、挙げられる例のパターンも限られていたりするので「あーはいはいまたそれね、分かった分かった」と流してしまいがちでした。結果、新しいテクノロジーに対して適応するべきところを思考停止してしまっていたのかなと思います。だから自分は悪くない!!という訳ではなく、大いに反省しています。日々進化している分野のリテラシー教育は難しいなと感じました。まあ、自分の頭で考えろよって話なんですけどね。。

 

まとめ

ちなみに私はスクショでシェアされた記事をもっと読みたいと思ったらそこに書かれているキーワードで検索して飛びます。なので一概にスクショでシェアだからといってサイト訪問者数に貢献がゼロであるというわけではないとも思います。だからと言って悪くないという訳ではないのですが…

 

サイト訪問者数という数字は、テレビの視聴率みたいな、そこまであてにならない目安程度の指標になりはじめているのかもしれないと思いました。

日本という国の自意識過剰と個人レベルの外交

こんにちは!橋本です。

 

国内で何かネガティブな内容のニュースがあるたびに「外国ではそんなことないのに」「日本人として恥ずかしい」と言われることがありますよね。不祥事など時事ネタから、投票率が低いだとかの社会トレンドなどいろいろなネタがあります。

 

たしかにそのようなニュースが海外に伝わるのは確かです。ものによっては本当に恥ずかしいことです。そう思います。確かに笑われることもあるでしょう。でも。自意識過剰だと思う時があります。だって大体の日本国外の反応は、

 

「そんなの知らねーよ!!!」

 

だと思うんです。

考えてみてください。海外で起こった情けない事件、ぱっと思い出せますか?思い出せないというのは日本だけで情けない事件が起こっているからではありません。それぞれ国内で盛り上がっているだけということです。

 

それよりも、個人が個人に与える影響を大事にしてほしいなと思うんです。

 

偏見の持続性

例えば、中国語をしゃべっている観光をしているらしき集団が道にひろがって大きな声でおしゃべりしていたら。

「ああ、中国人はそういうことをする人たちなんだな」

そう思ってしまう可能性って、なくはないと思います。

これはその人が元から持っている「中国人観光客」に対するネガティブな偏見に合わせて物事を見たからです。残念なことですが、悪い偏見は覆すことがとても難しい。悪い偏見への証拠は偏見を持っているので注目しやすく、集まって更に偏見を増長させることになります。

 

逆に言えば。

その悪い偏見を持っている人が、同じ中国人の集団の一人に、落としたものを拾ってもらったりしたら。とても嬉しくなるのではないでしょうか。印象深いと思います。

もしかしたら、偏見の法則にしたがって、中国人としてではなくて、その人を例外として扱うことになるかもしれません。やはり脳みそは都合が悪くできています。

しかし、そのような例外が一人はいることが脳みそに刻まれるはずです。

 

個人の与えうる影響

ここまで日本でマナーが悪いなどと悪い偏見を持たれやすい中国人の集団観光客という例を使って話してきました。ただ、これは中国人の集団観光客に向けて書いているわけではありません。今までの話がそのまま日本人にも、というより誰にでも当てはまるのです。

自分が海外旅行に行かない人でも関係ありません。日本に遊びに来る外国人旅行客はたくさんいます。もしその人がたまたま私を呼び止めたら、その返答が日本という国の印象を形作るのです。

 

まとめ

相手が自分やその国に対して偏見を持つことは止められません。

だからせめて、自分が対峙する相手には日本人に良い印象を持ってもらえるように行動できたらいいなと思います。

流行はどこから来るのか

こんにちは!橋本です。

 

流行ってどこから来るんでしょう?流行にいまいち乗り切れない私にとって謎な問題です。流行に乗ることがいいことだとも思いませんが、乗れないから乗らないのと乗れるのに乗らないのも違う気がするので、考えてみました。

 

ファッション・色

色の流行は、定められています。これ、知った時びっくりしました。パントーンによって、何年のこの季節はこの色!というのが10色ぐらい定められているんですよね。ファッションについては、はやっているものしか売っていないような印象を受けます。ある特定のファッションアイテムが売っていると、どのお店に行ってもそれが一つは置いてある。どのファッション雑誌にも目玉アイテムとして取り上げられている。なんとなく「上から定められている」感があるのがファッションの流行です。

 

流行言葉

高校生の時は流行語が手に取るようにわかりました。なんとなーく使われ始めてから、皆に爆発的に広がる過程が分かったものです。テレビの若者語特集みたいなものを見て、「今更?」とバカにした目で見ていました。しかし今やそういうものを見ると、知らないな~と思うことが増えました。人づてに伝わるものなのでしょうが、新しい言葉を最初に使った人は誰なのだろうと考えるとだんだん分からなくなってきます。

 

インターネットサービス

SNSスマホの普及も不思議なものです。最初は使っている人が少数派なのですが、いつのまにか皆使っている。すたれていくのもいつの間にかです。LINEなどを例にとると、ある一点で「みんなが使っているから使わないと不便」という状態に達するんですよね。ただ、その点に到達するまでのメカニズムはよくわかりません。

 

音楽

音楽の流行なんかは、メディアで流されるものによって大きく決まりますよね。ただランキングなどをもとに、ある程度ユーザーのフィードバックが可能なシステムになっていると思います。だからこそ「ごり押し」なんて言葉がでてくるわけです。人の心に響いていないのにしつこくプロモーションとして流されていると、人は「うざったい」と感じてしまう。でも、キャッチ―な曲だと頭に残ってしまって結局有名にはなってしまったりするんですよね。メディアの影響が特に大きいのが音楽の流行です。

 

商品

商品のはやりはたくさん売れる→売れることがわかる→たくさん入荷される→人の目にとまる→もっと売れる、というサイクルのような気がします。簡単な需要と供給のサイクルです。ただ広告によって上手く消費者にアピールできればまた違ってきますし、ブランド化されると冷静に考えるとなぜ売れるのかという商品もはやったりします。とにかく商品の流行についてはこれだけで論文が書けるぐらい研究されている重要なテーマだと思うので私なんかがここで書けることは限られています。また有名人のはやりも同じように、視聴率を使った需要と供給の関係で成り立っているのではと思います。

 

バイラル

最後に、はやりとはまた少違ってくるのかもしれませんが、最近は超短期で「バイラル」になるというものもありますね。ツイッターなどで特にフォロワーが多いわけでもない人のツイートが異常な勢いで拡散されていったりする。あるブログ記事がソーシャルメディアで繰り返しシェアされる。アンディー・ウォーホルの「現代では誰もが15分だけ有名人になれる」という言葉(めちゃくちゃ曖昧ですが)を思い出します。

 

まとめ

流行に敏感な人の脳内が分からないので、そういう人から見れば的外れな記事なのかもしれませんが、自分なりのまとめでした。流行りって不思議ですね。

集団に属している満足感を得る条件

こんにちは!橋本です。

 

集団に属する機会って、たくさんあると思います。例えば私のような大学生であれば、授業・部活・サークル・アルバイト・ボランティア…それらの組み合わせが私の日常を構成しています。

 

そこでの居心地の良さって、その集団に属していたいかどうかを決める大事な要素ですよね。でも、必ずしも入った集団すべてで居心地の良さを感じることができるわけではありません。サークルのようなゆるい集団だと、居心地の良さの欠如が集団を離れるきっかけになったりもします。居心地の良さはどうして生まれるのでしょうか。未だに大学で心地よさを感じ切れていない私には気になる話です(笑)

 

そこで今までの経験をもとに考えてみました。そしてどうすれば集団に属している満足感を得ることができるかを考えてみます。

 

だいたいの人と顔見知り

まず顔を合わせればなんとなく顔を見たことがある、もしくは名前と顔がなんとなく一致していることです。もちろん全員知っている必要はありません。ただ、見たことがない人を特定できるのが大事です。これによって、自分が忘れているだけなのか会ったことがないのかを判断できます。つまり団体全員それぞれに対しての距離感がつかめているということですね。

 

なんとなくつるめる人が数人はいる

行けば誰かつるむ相手がいるというのも大事です。名前と顔が確実に一致していて、お互いのことも少しでいいので知っている。どうでもいい世間話ができて多少楽しい相手。先輩と後輩にも一人ずつはいるほうが気楽です。同期にしか知り合いがいないのは結構苦しくなります。この層がいることによって、行けば毎回なにかしら楽しいことがあるという利点があります。誰もいなくて手持ちぶさたになる気まずさを感じなくてよくなるのです。

 

特に仲良い人が一人はいる

そう、結局仲の良い人が一人もいなければ楽しくないのです。私のこれまでの挫折ポイントはこれが大きかったのではないかと思います。ただこれだけではなく、上記とのコンビネーションが大事です。一人と仲が良ければ、その人と遊べればいいわけです。そうすると集団でいることの意義は薄れます。集団で遊ぶ時に一緒にいられる相手がいる、この集団にいることによってこの相手と出会えたという意識が大事です。

 

まとめ

つまりある団体で心地よく感じるには、ある程度定期的に通っていくことが必要となるんですね。ただそれだけでは充分ではない。どこかでつるむよりも少し強めの絆を作る必要がある。その方法は…わかっていたら苦労してません(笑)

今度はそもそも何故集団に属したいと感じるかを考えてみようと思います…

何を信じればいいのか分からなくていい。だって、誰にも分かっていないから

こんにちは!橋本です。

今日は何を信じれば分からないかいいときに気休めになるような話をしたいと思います。

 

<例>医療現場にて

例えば病気になって医者にかかる時、医学は自分の専門分野でないのでお医者さんの言うことを信じるしかありませんよね。さすがに明らかに熱が出ているのに気のせいだ、と言われたりしたら疑ってかかるかもしれませんが、だいたいの場合は説明を聞いて納得するしかありません。

 

ただ、まだ研究が進んでいなかったり、諸説あったりして、お医者さんにすら確実にものを言えない分野というものもあります。だからセカンドオピニオンというのが大事と言われるのですが、二人の医者に全く違うことを言われたりしたら正直「何を信じればいいの?」と思ってしまいますよね。

 

放射能と発がんの関連性、毎年やるべきと言われている乳がん検査、やたらと打てと言われた子宮頸がんの予防注射、精神病の治療…

自分の命にかかわる深刻な問題なので、不安になります。

 

確実にものが言えないというのは当たり前のことではあるんです。なぜならまだ誰にもわかってないから。どれが正しいかは時間しか教えてくれないんです。いわば私たちは実験用のモルモットで、これまで技術の進化のために命を捧げてきた人たちと同様に死んでしまう運命にあるのかもしれません。非常に怖いことですが、何かを選んで信じるしかないんです。

 

<例>その他のいろいろな場所にて

何を信じればいいか分からないというのは、自分の専門外の分野だけには限りません。普段議論されるような事柄でも起こります。というか、議論されているならだいたいそうだと思います。

 

テロに対する対処、集団自衛権、TPP。将来が確実に予測できて選択するのなら苦労はありません。対立しているように見えますが、これらの問題で戦っている人たちは実は同じゴールを目指していたりします。

 

テロなんてない平和な世界であってほしい。日本を戦争する国にしたくない。お互い利益のある貿易がしたい。ただいろいろな方法があって、それぞれ正しいかもしれないのでこんなに争ってしまうんです。

 

お互い平和を目指しているのに争ってしまうなんて皮肉ですよね。お互い自分が一番正しいと思っているので、相手が間違っているのを証明しようと必死です。

 

最終的にはとりあえず今のところの「正しそうなところ」を選んでおくしかないわけです。やはり何かを信じ込むしかない。

 

まとめ

何を信じればいいか分からないから、考えるのやーめた。

そうではなく、何を信じればいいか分からないのは当たり前のことだということをまず受け止めることは大事だと思います。しかしそのうえで、分からない問題は時間しか解決してくれないから自分なりの結論を出しいくしかないんです。あとはなるようにしかなりません。

子どものしつけの難しさと大切さ

こんにちは!橋本です。

 

大学生になって思うのは、両親に昔言いつけられて嫌だったことは全て私のために言ってくれていたことなんだなあということです。

 

「もう○時だ。早く寝なさい」

「パソコンは一日一時間まで」

スマホは高校生の間は許さない」

 

特に厳しい家庭ではありませんでしたが、最低限のルールはありました。当時は言われたことが自分の意志と反対なので逆らうことしか考えていませんでした。あまりにも自分の意志と反対のことを言いつけてくるので、父を敵とみなすこともありました。思春期そのものですね。反抗されて両親も腹が立つことは少なくなかったでしょう。

もちろん今も親と意見の相違でぶつかることはありますが、もう昔のようにむきになるようなことはありません。少し立ち止まって考えてみれば私のことを思って言ってくれていることなんてすぐに分かりそうなものなのに、理不尽な命令に聞こえたものです。どうしてなのでしょう。

 

幼少時の経験の大事さ

小さいころのしつけは私を形作っているとても大事なものです。両親にとても感謝したい。と同時に、自分にもし将来子どもができたら同じようにしてやれるのかどうかとても不安に思ったりします。ちょっと気が早すぎるでしょうか。

 

小さいころの経験って大事なんですよね。自分で選べないけれど、自分の基礎を確実に形作るものなんです。例えば小さいころの習い事は大きな影響を及ぼします。小さいころにはじめていなかったらプロになれないスポーツはたくさんあります。昔ちょっとやっていたピアノを続けていたら、もし昔書道をやっていたら。そう思う時もあったりします。

 

習い事としつけが違うのは、習い事なら今からでも始めるのは遅くないというところです。もちろん今から私がプロのピアニストになるのにはすべてを捨てる覚悟が必要かもしれませんが、趣味としてたしなむぐらいなら努力次第でしょう。その一方、自分をしつけなおすことは大変難しいことだと思います。しつけのなっていない自分がその自分をしつけなければいけない、ということなのですから。

 

まとめ

もしかしたら両親もこんな風に悩みながら自分を育ててくれたのかなと思うと、とても不思議な気持ちです。親は昔は何でもできる権力者にしか見えなかったけれど、そうではない面が見えたからこそ親のしつけのありがたみも分かってきたのかもしれません。

この難しさと同時に同時に子どもの将来を形作る行為であるしつけ。やはり両親に頭があがりません。たくさんのお父さんやお母さんに送る、少し大きくなった子どもからの匿名のラブレターでした。