騒音は何故「うるさい」のか
こんにちは!橋本です。
ご近所さんがうるさい。図書館に勉強しに来たのにずっとひそひそ話をしている人がいる。電車で隣に座った人のイヤホンの音漏れがすごい。「騒音」とは出くわすと非常に迷惑なものです。騒音を不快に思うことがあまりにも前提として受け止められているので、なぜ「騒音」が迷惑なのかを考えてみることにしました。
1.音が大きい
静かな環境を求めていたのに音がする、もしくは眠っているのに眠りを妨げられたり体調に支障が出るほどの大きな音がこのパターンです。しかし、音が大きいだけでは騒音にならない時もあります。こちらまで聞こえる大きな音でイヤホンで音楽を聴いている当人は、それぐらい大きな音で聴きたいから聴いているんですよね。運動会や音楽ライヴも、参加している当人たちはその音も楽しみの一部であったり、そのために来ていた李します。どうやら自分に関係ない大きな音、とまとめることができそうです。
2.騒音の内容が気に入らない
いわゆる不快な音です。黒板をひっかく音が典型でしょうか。もしくは隣の部屋のカップルが痴話喧嘩を始めたりしたら、それもこれに当てはまるでしょう。これは本当に当人の感性の問題で、それが何故不快かまでは論理的に説明することはできないと思います。一言で言えば「聞きたくない」ということですから。
3.騒音が自分ではコントロールできない
これは上記2つ両方に当てはまります。自分の聞きたくない大きな音を聞かされること。自分の聞きたくない内容を聞かされること。つまり、逆に言ってしまえば騒音の解決策はコントロールだということです。当たり前と言えば当たり前ですね。
では騒音をコントロールするにはどうすればいいのでしょう。騒音に対するコントロールを得る方法として考えられるのは、自分が物理的に動いて騒音を避けることです。耳栓をしたり、他の場所に移動したりなど方法は様々です。これは小規模な動きなら納得できるものですが、隣人の騒音で引っ越しを考える、などの大きな動きになってくると「迷惑をかけられているのはこっちなのに、どうしてこちらが更に大変な思いをしなければいけないのか」という気持ちになってきてしまいますよね。他にも騒音の発生源に直接交渉することも考えられるでしょうが、これがだめな時は悔しくても自分から動いた方が精神衛生的によろしいものです。世の中って不条理ですね。
まとめ
結局騒音は「聞きたくない」ということですね。考えすぎたでしょうか。そんな気もします。でもこうやって改めて理解をしてみると、少しの騒音ならそこまでいらいらするほとでもないことだと思えるようになった気がします。
Facebookプロフィール写真のフランス国旗問題
こんにちは!橋本です。
フランスで大変痛ましいテロ事件があり、とても話題になっていますね。信じられない数の人々が亡くなり、怪我をしています。
その一方で盛り上がっている「フェイスブックのプロフィール写真にフランス国旗を重ねる機能」の問題。哀悼の意を示す方法として、現在のプロフィール写真に数回のクリックでフランス国旗のトリコロールを透かしで入れることができるようになったそうです。期間が設定できるようにもなっているそうで、期間限定のプロフィール写真はその旨が文章で表示され他の人にも分かるようになっています。
そもそも議論がパリやレバノンでのテロ事件の議論からSNSの利用の仕方の議論にすり替わっているのも少し違和感はあるなと思います。そういう意味ではフェイスブックのプロフィール写真について書いているブログも、プロフィール写真を変えている人たちと同罪であったり(私もですね)。
プロフィール写真を変えましたという通知と並んで、この機能に違和感を唱えるブログがシェアされていたので、何個か読んでみました。いろいろな説明がありましたが、それを読んで自分なりに違和感の理由を考えてみました。
それはニュースフィードが同じコンテンツであふれる「うんざり感」です。
インターネット上の情報というのは回転がとてもはやいものです。数分ごとに新しい何かが更新されます。なので普段はとても多様な情報がものすごいスピードで飛び交っています。そんな状況なので、続けて3,4個同じコンテンツがあるだけで「うわ、なにこれ」と思ってしまうんです。要するに引いてしまう。
しかもそれはテロ自体に関する新しい情報ではなく、またフェイスブックで友達だけれども何年も話していないあの人がフェイスブックの写真をトリコロール色に変えた、という情報。違和感を感じる、というブログが何件もシェアされたり、いいねされたりする。循環しているのはある特定の数記事だったりする。
ただこのコンテンツにうんざりするっていうのは、パリのニュース自体にうんざりしたっていう発言にとらわれかねない。だから言えない。でもそうではないんです。
他にも、この透かし色の方法は今年6月にアメリカにおけるLGBTの権利拡張を祝福するために使われていたのに、それと同じ方法を哀悼に使うのってどうなのかな、と思ったりもします。世界各国でいろいろな建造物がトリコロール色のライトアップをされているのに対し、エッフェル塔のライトアップが消されているというのがこの点について端的に語っているのではないでしょうか。
でもこうやって議論が深まっていることはある意味ではいいことなのではと思います。新しいメディアなのだから、こうやって使い方について議論してなんぼです。
ただ一方で、このテロによって影響を受けた方々のことを常に忘れてはいけません。
被害者やその関係者の方々に深い哀悼の意を捧げます。
何かをはじめることの難しさ
こんにちは!橋本です。
今までチャレンジしたことのない新しい何かをはじめるのって難しくないですか?これにはいろいろな要因があると思うのですが、それを私が格闘している(格闘できるステージまでも到達していない気がしますが)「テクノロジー」という領域を例にとって説明していきたいと思います。
1.目指すべきものが分からない
そう、まず目標が分からないんです。漠然とテクノロジーに憧れているだけで、何をやりたいからテクノロジーに強くなりたい、という目標があるわけではない。手掛かりがありません。何が分からないか分からない状態にあります。そもそも「テクノロジー」なんて言葉でパソコンやスマホをひとくくりにしているところ自体、分かっている人からすればやれやれという感じでしょう。
2.何から始めればいいのかすら分からない
そもそも「なんとなやってみたいなあ」ぐらいのモチベーションの場合、どこから始めればいいのかも分かりません。検索するワードすら分からない。
3.何を言っているのか分からない
そして何かとっかかりにたどり着いたとしても、そこには大量の専門用語が待っています。専門用語を調べてもまた専門用語で説明される。それを乗り越えるのは、もうある程度分かっている人が想像するよりもはるかに難しいのです。
3.初心者であることが恥ずかしい
分からないのが恥ずかしいなんて子供っぽいと思われるかもしれません。しかし、分からないことが基本的すぎて恥ずかしくなってきてしまいます。そして何から何まで分からないので何回も聞くことが申し訳なくなってきます。
4.興味がない
興味があるから始めようと思ったのではないか?その通りです。もちろん興味はあるんです。でも今までやってこなかったってことは、興味を上回るめんどくささとか、手間とか、そのような何かがあったんです。つまり、それを乗り越えてまでやろうと思うほどには興味がなかったことなんです。私の場合これが一番の障壁に感じます。今やっていることは人生のどこかのポイントで新しく「始めた」ことだったはずです。それでも「始める」ことができたのは、ひとえに興味があって、きちんと「始める」ことができるまで「続ける」ことができたからだったのではないでしょうか。
まとめ
「やりたいこと」に本気で興味を持って、しっかり物事をはじめるというのはとても難しいことなんです。それでも始めたいと思えるなら、辛抱強く頑張っていくしかないのでしょう…
やりたいことが分からない
こんにちは!橋本です。
自分のやりたいこと、ってすごい曖昧ですよね。大学生なので悩みます。どんなことを仕事にしたいんだろう。自分は何をやるのが好きなんだろう。就活は私にとってもう少し先の話ですが、これから数十年やり続けることを選ぶ気がして、決断をとても重荷に感じることは少なくありません。
自分のやりたいことをやる人生が至上みたいな信条が流行っているような気がしますが、そもそもそういうものなのだろうか。それを考えてみたいと思います。
自由の代償
現代に至る前の長い間、自分の仕事や結婚相手すら選べない不自由な人生だってあったわけです。それでも人々はある程度幸せだった。逆に言えば選べることによって、選ばなければならなくなったんです。就活しないといけない。婚活しないといけない。
選ばなくていいからなんか仕事をくれ!と、そんな風に思うこともあります。日本の文系大学生なんて大学でやったことと仕事が結びついていないからなおさらです。
でも、やっぱり自分で選びたいんですよね。でもその感情の根拠って何なんでしょう?私は根拠がない思い込みのようなものだと思っています。
やりたいことのあいまいさ
そもそもやりたいと思うことに出会うのがアクシデントみたいなものだと思うんです。私はもしかしたらインド映画を作れば成功してたかもしれないけど、インド映画は見たことがないしそこまで興味もありません。世界のスポーツを全て試せば一つぐらい才能があったのかもしれない。でもそんなことはできないんです。時間は限られています。
やりたいことなんて、自分の周りにある小さい世界に影響されるすごく相対的な概念だなあと思うのです。
そんな中でもやることは「やりたいこと」を基準に選びたい。親に勝手に決められるよりは選べた方がいい。自由を信仰するカルトにどっぷりはまっているような気分です。実際そうなんだと思います。
ではどうやればやりたいことが分かるのか
そんな相対的な「やりたいこと」を選ぶためにはどんな基準を使うべきか。これが分かってれば苦労しないのですが。かっこいい!とかやってみたい!とかっていうのはただの憧れだったりします。続けるとなるとそれだけでは足りないからです。
努力を続けるっていうのはドラマとかで描かれるような汗キラキラなものじゃなくて、もっと地味で苦しくて面倒くさいものだったりします。どんなに頑張って入った大学でも、課題がだるくてツイッターをしてしまいます。してしまうんです。
もういっそ、「やりたいこと」なんて分かるわけない!と開き直るのもありなんじゃないかと思います。自分探しをしても無駄なのと同じです。答えはありません。逆に言えば間違いもないのではないでしょうか。
まとめ
結局「やりたいこと」があるだなんて幻想だし、たまたま出会って楽しそうなものをやっていけばいいのかなと気楽に考えるのも悪くないと思います。
「やりたいこと」という自由であるはずのものに縛られていたら本末転倒ですから。
ユーザーネームの個性とネットの匿名性
こんにちは!橋本です。
ネットで何かのサービスやコンテンツを利用する時、ユーザー登録をまず求められることは珍しいことではありません。ものによってはご丁寧にグーグルでログイン、フェイスブックでログインなんていうのがあったりします。そうするとワンクリックで登録が完了する。仮登録をしてからメールをチェックして、さらにそこからリンクに飛んで…という手間も省けます。こんなに簡単なことはありません。
しかし、匿名でネットを利用したい時。ありますよね。
そんな時のユーザーネームの設定、難しくないですか?!
私はこのブログを友人に知られるのが嫌だったので、名前の設定の時にしばらく悩みました。
誕生日、好きなものなど自分に結びつくものを使うのはバレる気がして使いたくない。でも自分と全く関係がないものって思いつかないし、覚えるのも難しいし、なんか違う…
ということで結局全国に何万人も同じプロフィールを持つ「橋本」という苗字に落ち着きました。
ということで今回、ネットという環境の匿名性と、それが個性に及ぼす影響について考えてみました。
掲示板
そもそもネットが「匿名」だったのは掲示板とかBBSとかが盛んだった時代の話のような気がします。
2chなんかがその典型ですよね。IDっていうランダムな英数字の組み合わせが与えられて(実際に使ったことがないのでそこすら曖昧ですが)、その掲示板ではその英数字としてやりとりをかわす。そこに発言以外の個性は挟まれない。
ユーザー登録をするサービスとなると、そこから一歩踏み出すことになると思うんです。
登録制が始まってから
SNS、ソーシャルネットワーキングサービス。登録して、自分として一つのユーザーが成立しているからこそ意味のあるサービスです。
SNSでなくても、匿名でありつつ登録をして一つのアイデンティティを維持することはあります。動画サイトであれば自分のお気に入りを登録できるようになる。その代償といっては大げさですが、そのアカウントを特定するために名前が求められる。
ここで登録をする時に自分の好きなものから名前をとったりする。誕生日を入れてみたり、あだ名を入れてみたり。覚えられるように、また自分を象徴するものになるので何かしら自分と関係ある単語やら数字やらを入れる人は多いのではないかと思います。顔文字にしてみたりとかいうのも、私はそういうことを面白いと思う人ですよっていう意思表示。そのユーザーネームをを選んだということがまず最初にその人物について語っているんです。
そして更なる個性の追求
ただ、思いつく範囲は限られています。かぶることだってあるわけです。ユーザーIDなんかは、かぶっていると使わせてくれない。ユニークさが求められる。
更に友人同士のやり取りを前提としているSNSの利用方法だと、少しでもかっこいい、いい感じのプロフィールにしたいわけですね。プロフィール写真、ユーザーネーム、プロフィール。それを読んだ人が「私」だと分かるように。差別化です。
こうやって個性的なものの追求が進んでいったように思います。
アイデンティティの創作
このような個人特定化の流れの中で匿名でサービスを利用したい。理由は様々です。私みたいに、友達に見られると少し気恥ずかしいブログを書きたい。SNSの趣味アカウントを作りたい。オンラインゲームで実名を出すのは気が引ける。もちろんIPアドレスまでたどられれば特定は可能ですが、ぱっと見で分からなければいい。
そうすると自分以外の名前に自分を代表してもらうしかないわけです。匿名、ではないんです。架空の人物に代わりに名乗ってもらうという感じでしょうか。登録を求められる時点で匿名はもう存在しないんです。登録をしなければならない、名前をつける必要がある。匿名でいるためには、他の名前でごまかさないといけない。自分の名前ではないのですが、その名前が一つのアイデンティティを保ちつづけるんです。
私はここで、抵抗感とまでは言わないけれども、何か違和感を感じてしまうんですね。そこではその名前は自分そのものなわけです。だから自分とあまりにも関係がないと乖離を感じるのだと思います。完全に架空の人物を創作し、その人物に自分を代表させることに抵抗が出てしまう。だって私なのに私じゃないから。
匿名でいることができない
本来誰かばれないで使えるっていうのはインターネットの売りだったと思うのですが、ユーザー登録がしっかり浸透して、自分を自分ですと宣言しないとサービスが利用できなくなった。ただ、そうしたくないから自分以外のアイデンティティを使って名乗る。それに抵抗を感じるのは、自分のアイデンティティに対するプライドが高いということなのかなと思います。個性が大事と教わってきているのが、無駄に発揮されてしまう。
私の中で起こっていた葛藤はそういうことだったのかなと思います。
まとめ
ということで、ネットの匿名性からアイデンティティの問題を考えてみました。別アカウントを作る時に自分と全く関係ないものを作ることに抵抗がない人にはなんのこっちゃって話だったかもしれません。でも私が思っているということは、そう思っている人は少なからずいるのかなと思います。どうなんでしょう…
おまけ
「他のSNSと接続する」っていうボタン、ひやひやするので押しやすい所に置くのやめてほしいですね。接続したくないからしてないわけで、したいなら探してでもやりますから。うっかり押しそうになると本当に冷や汗です。
以上、橋本でした。
このブログについて
初めまして!
大学2年生の橋本と申します。
この苗字は日本で25番目に多い苗字なのだそうです。微妙なところですね。でもみなさんの知り合いにも一人は橋本さんがいるのではないでしょうか?
そんなどこにでもいる橋本さんが、気になったことをつらつらと書いていきます。
どうぞよろしくお願いします!